ビワハヤヒデってどんな馬? という人のための「ビワハヤヒデものがたり」
(写真と本文はまーったく関係ありません)

1990年2月、世がバブル崩壊に気づき始めたちょうどその頃、お腹に子供を宿した一頭の牝馬が、遠く海を渡って日本へと辿り着きました。
彼女の名はパシフィカス。検疫の遅れで出産日まで余裕が無くなっていた彼女は、北海道へ向かう予定を変更し、福島の地で一頭の芦毛馬を出産します。数年後、競馬界を席捲することになるパシフィカスでしたが、この時はまだその実力をあらわにしておらず、仔馬の父であるシャルードも競争成績に特に見るものが無い平凡な種牡馬でした。
そして、後に名付けられたその仔馬の名はビワハヤヒデ。彼の物語はこの時静かに幕を開けました。

その後、ビワハヤヒデは北海道で幼少時代を過ごすことになりますが、この時の彼はそれほど期待される存在ではなかったと言われています。どことなくぼーっとしたその姿は、俊敏さが命のサラブレッドとしてはマイナスだったのかもしれません。また、垢抜けない馬体のせいで、時として熊に間違われることもあったとか。
そんな彼でしたが、広大な北海道の地で競走馬としての力を着々と整えていきました。

そして、2年後の1992年9月13日。岸滋彦をパートナーに、ビワハヤヒデはデビュー戦を見事大差勝ちで飾ります。さらに続くもみじステークスを見事なレコード勝ち。それは、世間を注目させるには十分な活躍でした。
そして、初の重賞であるデイリー杯3歳ステークスをレコード勝ちするに至って、周囲の期待は俄然高まり始めます。「今年こそ三冠馬誕生か?!」「芦毛伝説の継承者!」。新聞には心地よい見出しが躍り、彼の未来は約束されたかのように思われました。

そして、いよいよ3歳馬の頂点を決めるレース、朝日杯3歳ステークスを迎えます。堂々の1番人気に推された彼でしたが、運命はそう簡単に成功への階段を上らせてはくれませんでした。伏兵エルウェーウィンの前に無念の敗退を喫してしまったのです。たとえ鼻差の2着とはいえ負けは負け。世間は彼に対して失望感を覚えてしまいます。
そして、彼とは別の道を歩んでいるもう一頭の優駿の存在に、人々は気づき始めていました。

年が明けた1993年2月14日。ビワハヤヒデは4歳になって初めてのレースに挑みました。共同通信杯4歳ステークス、GT皐月賞へ向かうステップレースの一つです。3歳チャンピオンにはなれなかったとはいえ、このレースは彼にとって楽勝のレースになるはずでした。
しかし、彼は再び敗れてしまいます。
前回と同じく僅差の2着でしたが、負けた相手は明らかに格下と思われていたマイネルリマーク。世間の彼に対する失望感は、前回の比ではありませんでした。一部の人達には「早熟馬」のレッテルを貼られ、マスコミの彼に対する報道も徐々にトーンダウンしていきます。ビワハヤヒデ中心に進むと思われていたクラシック戦線は、にわかに混迷の度を増していきました。

それから3週間後の3月7日、裏街道を歩んで来たもう一頭の優駿が中山の桧舞台に姿を現しました。
彼の名はウイニングチケット。
デビュー戦こそ不良馬場に泣かされ5着でしたが、その後3連勝。一躍クラシック戦線の舞台に踊り出てきた逸材です。そして、この日のレースは皐月賞トライアル弥生賞。ウイニングチケットにとっては、皐月賞の予行演習とでも言うべき重要な一戦です。誰もが彼の走りに注目していました。
そして数刻後、人々は圧倒的な力を目にすることになりました。2着に影も踏ませぬ快走で、彼は見事な勝利を飾ったのです。
そしてそれは、クラシック主役の座がビワハヤヒデからウイニングチケットへと移り変わった瞬間でもありました。
3月20日、中山競馬場。
観客の少ない土曜日の中山に、ビワハヤヒデは姿を現しました。
皐月賞トライアル、若葉ステークス。
新しいパートナーである岡部幸雄を背に、彼は後の無い勝負に出ようとしていました。ここで負けるようなことがあれば、彼の存在はクラシック候補から一有力馬に落ちてしまいかねません。また、己に貼られた不名誉なレッテルを外すためにも、彼はどうしても勝たなくてはなりませんでした。

しかし、そんな周囲の不安は杞憂に終わります。彼は見事な走りで完璧な勝利を収めたのです。オープン戦とはいえ、トライアルでの堂々の勝利。ビワハヤヒデは、強敵ウイニングチケットに対して堂々と挑戦状を叩きつけたのです。
対決の日がやってきました。
4月18日、クラシック第一弾皐月賞。ビワハヤヒデは3.5倍で2番人気でした。1番人気は最大のライバルであるウイニングチケット、2.0倍。注目はこの二強対決に絞られたかに思われました。しかし、この二頭の隙を虎視眈々と狙っている者がいたのです。天才騎手武豊と、彼のパートナーであるナリタタイシンでした。

いよいよレースがスタートしました。
ビワハヤヒデが先行策、ウイニングチケットは後方からの追い込みを狙います。最終コーナーを立ち上がり、先頭にビワハヤヒデとウイニングチケットが並びました。ビワハヤヒデがじわじわと後続を引き離し始めます。しかしウイニングチケットは伸びません。
多くの人がビワハヤヒデの勝利を確信した、まさにその時でした。一頭の馬が疾風の勢いでビワハヤヒデに襲い掛かったのです。それはナリタタイシンと武豊でした。

ゴール直前でかわされたビワハヤヒデは、首差の二着に敗れました。宿敵ウイニングチケットには先着したものの、すぐ目の前にあったGTのタイトルにはまたしても手が届かなかったのです。そして新しいライバルの出現は、これから先の戦いがさらに険しいものになるであろうことを予感させました。
皐月賞の結果は、クラシックの勢力図を二強対決から三強対決へと変化させました。
三冠レースの第二弾であり、同時に競馬界最大の祭典でもある日本ダービーを目前に控え、ファンは様々な夢を描いていました。
柴田政人のダービー初戴冠を願う者、武豊の二冠達成に思いをはせる者、そしてビワハヤヒデのGT初制覇を夢見る者。多くの人達は、各々の期待を胸に決戦の日を待ちました。

そして迎えた5月30日、ダービー当日。
ファンの期待は見事な三極構造となって表れました。
1番人気ウイニングチケット、3.6倍。
2番人気ビワハヤヒデ、3.9倍。
3番人気ナリタタイシン、4.0倍。

ウイニングチケット騎乗の柴田政人は、今まで18回のダービー騎乗がありながら、まだ一度も勝ったことがありませんでした。その後の騎手生命を考えると、これが最後にして最大のチャンスであるといっても過言ではありません。しかし、GT初勝利を目指すビワハヤヒデにとっても、決して負けるわけにはいかないレースでした。そして武豊も、初のダービー制覇、そして二冠達成を虎視眈々と狙っていました。
三者三様の思惑の中、ダービーはスタートを切りました。
先行集団やや後方をビワハヤヒデとウイニングチケットが、そしてナリタタイシンは最後方からその時を待ちます。
最後の直線に入った時、ウイニングチケットが見事な位置取りで先頭に踊り出ました。ビワハヤヒデも、その後を必死で追走します。
さらに、最後方から脅威の末足を発揮したナリタタイシンが加わり、府中の直線は三強による決戦の舞台へと変化していきます。

三頭の優駿は、長い長い直線でダービー史上に残る名勝負を演じました。ビワハヤヒデも、そしてナリタタイシンも、先頭を走るウイニングチケットに必死に追いすがりますが、その差はなかなか縮まりません。ビワハヤヒデが並びかけても、ナリタタイシンが豪脚を発揮しても、この時のウイニングチケットは決して揺るぎませんでした。それは、按上柴田政人のダービー制覇に賭ける執念が生んだ力だったのかもしれません。
ビワハヤヒデがゴールを駆け抜けたのは、ウイニングチケットからほんの半馬身後方、1着ウイニングチケットから3着ナリタタイシンまでの差は、僅か1馬身3/4しかありませんでした。

こうして、ダービーは柴田政人の悲願達成という劇的な結果で幕を閉じました。
しかし、ビワハヤヒデにとっては、またしてものGT2着。再びライバルのGT勝利を見せ付けられる結果となってしまったのです。
また、出走したGT全て2着という結果に、世間からは「シルバーコレクター」というありがたくない称号まで与えられてしまいました。
しかし、彼のファンは信じていました。
三冠最後のレース菊花賞。真に強い馬が勝つと言われるこのレースで、彼が真の強さを発揮してくれるであろうことを。

秋。
夏を栗東で過ごしたビワハヤヒデは、大きく成長してファンの前に帰ってきました。トレードマークだった覆面を外し、菊花賞トライアルである神戸新聞杯を圧勝。堂々の本命として菊花賞へと乗り込むことになったのです。

そして11月7日。三冠最終戦である菊花賞を迎えます。
ナリタタイシンに肺出血というアクシデントがあり、人気はビワハヤヒデとウイニングチケットに二分されていました。ビワハヤヒデが2.4倍で一番人気。ウイニングチケットは2.8倍で二番人気。ナリタタイシンは10.7倍の三番人気でした。

最後の三強対決が始まりました。
長い長い淀の3000mを、ビワハヤヒデは悠然と進んでいきます。そして最終コーナー、ビワハヤヒデが先頭に踊り出ました。ウイニングチケットを始めとする強豪馬が、ビワハヤヒデめがけて一斉に襲い掛かります。しかし、今の彼は春までの彼ではありませんでした。按上岡部幸雄のGOサインに鋭く反応すると、みるみるうちに後続馬を突き放します。彼の行く手を遮る馬はもうどこにもいません。ビワハヤヒデが栄光のゴールを駆け抜けた時、後続には5馬身もの大差がついていました。
それは、長かった雌伏の時が終わりを告げた瞬間でした。
こうして彼は念願のGT制覇を成し遂げると共に、4歳実力NO1としても認められるようになったのです。そして、新たな目標である現役最強馬への道を登り始めたのでした。
この年の有馬記念には豪華メンバーが揃いました。
前年の菊花賞馬であり、この年の天皇賞馬でもあるライスシャワー。前走で外国馬を退け、見事な走りでジャパンカップを制したレガシーワールド。天才武豊と共に牝馬二冠を達成したベガ。共にクラシックを沸かせてきたダービー馬ウイニングチケット。そして、一年ぶりのレースとなる二冠馬トウカイテイオー。
ビワハヤヒデは、彼ら強豪馬を抑えて堂々の一番人気に選ばれました。彼にとって、このレースは現役最強馬への最後の階段でもあったのです。

スタートから最終コーナーを立ち上がるまで、ビワハヤヒデは完璧なレース運びをします。ウイニングチケットも、レガシーワールドも、そしてライスシャワーも、彼の走りにはついてこれませんでした。しかし最後の直線、思いもかけない馬が彼に襲い掛かります。
それは、一年ぶりに復帰したトウカイテイオーでした。
思いもかけない展開にファンは大歓声をあげます。しかし、ビワハヤヒデとしても負けるわけにはいきません。16万人の歓声が後押しする中、短い中山の直線を二頭の優駿はたった一つの栄光目指して走り続けました。そして短くも濃密な時を経て二頭がゴール板を駆け抜けた時、勝利の女神が微笑んだのはトウカイテイオーの方でした。
現役最強の座に王手をかけていたビワハヤヒデでしたが、トウカイテイオーの前に古馬の底力を思い知らされる結果となってしまったのです。彼にとって、思いもかけないライバルの出現でした。

このレースと共に、長かった1993年が終わりを告げました。ビワハヤヒデにとっては、挫折と栄光、そして新たなライバルの出現と、まさに激動の一年でした。
そして、有馬記念では敗れたビワハヤヒデでしたが、その安定した走りが評価され、この年の年度代表馬に選ばれたのです。
1994年。
5歳となったビワハヤヒデは更にたくましさを増していました。その目標はもちろん古馬最大のレースである天皇賞制覇です。
初戦の京都記念を圧勝したビワハヤヒデは、堂々の1番人気として天皇賞へと乗り込みます。ライバルは、目黒記念を快勝して復活を果たしたナリタタイシン。しかし、今のビワハヤヒデには既に王者としての風格が漂いつつありました。彼はナリタタイシンの追撃をものともせず、見事天皇賞制覇を成し遂げたのです。

天皇賞馬となったビワハヤヒデは、続くGT宝塚記念も圧勝し、春シーズンを無敗で終えました。
しかし、ここで残念なニュースが入ります。それは、秋の天皇賞で対決するはずだったトウカイテイオーの引退でした。ビワハヤヒデは雪辱のチャンスを永久に失ってしまったのです。
とはいえ、春のGT戦線を完璧な強さで制覇したビワハヤヒデは、今や現役最強馬として多くの人に認められる存在になっていました。
ただ、強力なライバルが居なくなった今、先行からの抜け出しという戦法を取るビワハヤヒデのレースは、安定した結果を残す反面、どちらかといえば面白味の無いレースでもありました。ファンはそんな彼に対して、新たなライバルの出現、新たな名勝負を期待していました。

そしてまさにこの時、ビワハヤヒデにとって最大とも言えるライバルが育ち始めていたのです。それは、この時点での二冠馬であり、後に菊花賞をも制覇して10年ぶりの三冠馬となる彼の弟、ナリタブライアンでした。

この年の秋、世間はビワハヤヒデとナリタブライアンの兄弟対決の話題でもちきりでした。ビワハヤヒデ有利を唱える者、ナリタブライアンの圧勝を確信する者。人々の意見は様々でした。しかし、ビワハヤヒデにはその前にやっておかなければならないことがありました。それは、秋の天皇賞制覇。タマモクロス以来となる天皇賞春秋連覇への挑戦です。

秋初戦のオールカマーでウイニングチケットを退けたビワハヤヒデは、単勝支持率1.7倍の圧倒的一番人気で天皇賞へ挑むことになりました。その先に待ち受けるナリタブライアンとの対決へ向けて、負けるわけにはいかないレースでした。
しかしこの時、充実の時を迎えた彼の元へ悲劇の足音が迫ってきていたのです。

運命の10月30日。第110回天皇賞はスタートを切りました。レース中、好位置についていた彼でしたが、最後の直線に入ってもいつもの伸びがありません。前を行く馬をかわすことが出来ず、馬群の中でもがき続けます。彼がそんな姿を見せるのは初めてのことでした。そして結果は5着。それは初めて経験する惨敗であり、そして、初めて経験する故障でした。
後に判明した病名は、左前足屈腱炎。それは、競走馬にとって最大の敵とも言える不治の病でした。
優勝したネーハイシーザーがウイニングランをしている頃、ビワハヤヒデは馬運車が来るのを静かに待ち続けていました。

かつて、名馬メジロマックイーンが引退を余儀なくされた時、武豊は言いました。
「信じたくないけど、栄光と挫折は紙一重なんだよね」
栄光へと向かう道は、限りなく細いタイトロープのようなもの。その上を旅する彼ら競走馬にとって、突然の旅の終わりは宿命であり、そして避けようのない必然なのかもしれません。

ビワハヤヒデの引退が発表されたのは、それから数日後のことでした。

それから二ヶ月後。
一頭の優駿が師走の中山を疾走していました。
後続に3馬身以上の差を付け、圧倒的な力で有馬記念を制したその馬は、ビワハヤヒデの弟ナリタブライアンでした。
ファンが待ち望んだ兄弟対決は幻に終わりました。
しかし、時代は刻々と流れ続けます。
ナリタブライアンの勝利は、古き時代が終わり、新しい時代の扉が開かれた証であったのかもしれません。





そして、長い時が流れました。
多くの優駿がターフを沸かせ、そして去っていきました。
競馬場の喧騒とはかけ離れた穏やかな日常。彼らサラブレッドにしてみれば、そんな暮らしこそが本来の姿なのかもしれません。
しかし、彼らが短い人生の中で見せる一瞬の輝きは、これからもファンを魅了し続けることでしょう。
戦いを終えたビワハヤヒデは、今日も北海道の牧場で静かに草を食んでいます。